ショーワグローブの創業者、田中明雄。彼はいかにして世界初の塩化ビニール製手袋を作り得たのか。その軌跡を追う。
1942年(昭和17年)軍隊に入隊
派遣された任地で過酷な耐寒訓練を経験
ショーワグローブの創業者・田中明雄(あけお)は1920年(大正9年)兵庫県に生まれた。
幼少より活発な性格だった田中は、姫路中学に進学すると柔道を始め、高松高商に至るまで主将として活躍した。
1942年(昭和17年)、田中は軍隊に入隊。翌年、派遣された任地で過酷な耐寒訓練を経験した。顔は外気にさらされているために、吐く息は即座に凍るばかりか、まつげもまぶたもバリバリに凍り、まぶたが開かなくなる。そして鼻の感覚が麻痺してくる。鼻先が白くなってくると、凍傷の前兆である。
田中 明雄
塩化ビニールは耐酸性・弾性・耐用性に優れていた
1945年(昭和20年)、台湾で終戦を迎えた田中は、故郷の兵庫県に戻った。
新しい文化、新しい産業の胎動を肌で感じていた田中は、自ら事業を興すことを志す。
「何かモノを作って世の中に供給する事業をしたい」
とその道を模索し始めた。そして1950年(昭和25年)のこと、田中は大手化学会社に勤めていた友人から、新素材「塩化ビニール」を製品化する誘いを受け、その実用化の道を探し始めた。
ある日火鉢に当たっていた田中は、ふと思いついて火箸に塩化ビニールをつけて抜いてみた。そしてできた筒状のモノを見て「これは万年筆のインクチューブになるぞ」とひらめいた。当時、万年筆のインクチューブはゴム製だったが、しばらく使うとゴムの弾性が失われインクを吸わなくなるのが難点だった。その点、塩化ビニールは耐酸性・弾性・耐用性に優れていた。試行錯誤の末、塩化ビニール製の万年筆のインクチューブの製品化にこぎつけた田中は、1952年(昭和27年)に田中商店を設立。誰も使ったことのない素材から新しいモノを作り出したことに、言いようのない喜びと満足感を抱いた。
第一号社員の白国修はこう回想している。
「早朝の炉の火入れを担当するようになってからは、朝4時前に自宅を出て、一日の仕事を終えて、それから翌日のペーストの準備をして家に帰ると夜中の12時を過ぎるという毎日でした。」
品質も安定し注文が相次ぐようになったが、それをこなすだけの仕事に、次第に田中は物足りなさを感じていた。
田中は、塩化ビニールという優れた素材を、ただ万年筆の部品で終わらせるのはもったいないと思うようになった。
自分の辛い体験から生まれた「手を守りたい」という思いから、塩化ビニールを使った手袋の開発に着手
塩化ビニールのさらなる可能性を模索していた田中だったが、様々な試作品を試すも、うまくいかない日々が続いていた。
あるとき田中は、自ら戦時中体験した防寒用手袋の粗悪さを思い出していた。あかぎれだらけの手、凍傷にかかってしまった手...。
当時、天然ゴム製の手袋はあったものの、臭いが強く、作業性、耐久性ともにあまり良いものではなかった。一方、塩化ビニールは、ひっぱりなどに対する強度、酸、アルカリなどの耐薬品性、耐水・耐油・耐候性、そして電気特性の面で優れている。既に塩化ビニールを熟知していた田中は
「手袋こそ、塩化ビニールがふさわしいのではないか!」
と思い至った。
自分の辛い体験から生まれた「手を守りたい」という思いから、田中は塩化ビニールを使った手袋の開発に着手した。しかし、それは楽な道のりではなかった。
田中はまず、手袋の形の元になる手型の開発から始めることにした。従業員をモデルにして、いくつもいくつも石膏や粘土で型を取る。しかし、納得のいく手型はなかなか完成しなかった。手袋は、人間の指を覆い、保護するものである。そして同時に、モノを掴んだり感触を確かめたりする微妙な手の動きを妨げない機能が要求される。そのためには、何よりも精巧な手型が必要であった。
さらに、塩化ビニールのペーストの問題もあった。万年筆チューブと異なり、手袋の場合は大きな面積を必要とした。そのため厚みの均質性がとれず、ムラができてしまう。また、ペーストの気泡を除去したつもりでも、さらに細かい気泡が手袋にできてしまう。
田中は、一日の仕事が終わり皆が帰った後の工場で、ひとり試作品の手袋をはめたりはずしたりしながら、物言わぬ手型と果てしない対話を続けた。
さらに設備の問題もあった。手袋を製造するには万年筆チューブ用の炉では小さく、手袋が入るだけの炉が必要だった。試行錯誤や失敗を幾たびも重ね、ようやく製品化のめどがつくと、田中は新たな会社を設立することにした。
1954年(昭和29年)、ショーワグローブの前身となる尚和化工株式会社が発足する。尚和という社名は、「和をもって尚しとなす」という、かつて高松高商生であったころに聞いた校長先生の言葉からとられ、社是にもなった。
人の真似をしないという信念、品質への徹底したこだわり
いよいよ製造設備が稼働し、ようやく製品として出荷できるところまでたどり着いたとき、完成した製品の中にごくわずかに満足のいかないものが混じっていた。
田中は即座に言い放った。
「全部捨てろ、一からやり直し。」
「ええっ。不良品だけを捨てて、良いものを出荷すればいいのでは?」
と驚く社員に対して、田中はさらに言った。
「あかん!一つでも悪い品ができるということは、全部悪いということだ!」
田中はせっかくできあがった製品全てを廃棄処分にさせ、生産は振り出しに戻された。毎日がその繰り返しだった。
「一つでも悪い品ができるということは、全部悪いということだ。」
田中は身をもって、品質重視の姿勢を社員に植え付けていった。
そして創意工夫を重ねた末、ついに、塩化ビニール製の厚型手袋は完成した。ビニールのグローブということから『ビニローブ』と名付けられた。『ビニローブ』の販売を委託した代理店主は尋ねた。
「塩化ビニール製の手袋なんて聞いたことがない。これまでどこかで作っていましたか?」
田中は答えた。
「いえ、知りません。私が作ったんだから。」
そう、このとき誰も知る由もなかったが、この塩化ビニール製手袋は、日本はおろか世界的にも初めてのものだったのだ。
「人の真似をしない」という信念。
品質への徹底したこだわり。
世界初の塩化ビニール製手袋の開発以来、そのポリシーや開発スピリットは、研究開発、製品開発、技術開発のあらゆる局面において、脈々と流れ続けている。